『香』
何度目かの跳躍で鬱蒼と繁った林を抜けて潜り戸の上へ着地。
そのまま塀を伝って一番近い棟の屋根に飛び移り、奥へと向かう。
一の郭
二の郭
本丸に移って中庭の松の木を目印に、
目的の部屋の前の中庭に音もなく着地する。
侵入成功。
秋枯れた趣深い庭に面した部屋からは、障子超しに紙燭の灯りがもれている。それを目指して庭を横切り、縁側に上がる。
その一連の動作が馴れきってしまっていて、佐助は淡く苦笑。
そして馴れた手つきで障子を開けた。
いつもの経路、いつもの通い路を経て、
「こんばんは、鬼の旦那」
愛しい相手のもとへと忍び入る。
「お、今日は早ぇな。まだ宵の口だろ」
文机に向かっていた元親は声に振り返り、そう言って佐助を迎えた。
「仕事が早く終わってね」
「じゃあメシまだだろ?用意させる」
「いつも悪いね〜ご馳走になっちゃって」
元親は人を呼びに部屋を出る。その間に佐助は手裏剣や苦無などの武具、籠手、臑当、半首などの具足を解いて身体を伸ばした。
今回の任地から土佐は本来なら遠回りになるのだが、あえて佐助は外海を渡った。長く繋がる元親との仲と不思議な縁で、ここは佐助にとって住処の甲斐と同じような場所になっていた。
重い具足を解いて人心地つくと、元親が戻ってきて佐助の傍らに腰を下ろす。
すると、何かに気がついたのか、顔を佐助の頭へ触れるほど近くに寄せた。
「どうしたの?」
半首を取った額に相手の息を感じながら、佐助は不思議そうに尋ねる。だが、それには構わず元親は大きな手を伸ばし、
「もうこんな季節か」
くしゃりと佐助の赤味がかった髪を撫でた。
「?」
「金木犀、庭のが咲いたんだな」
言い、手を佐助の前に広げる。そこには彼の髪とよく似た色の小さな花がのっていた。
「そう言えば、松の隣に植えてあったね」
おそらく、中庭に降りたときに花が落ちて着いたのだろう。
元親はもう一度手を佐助の髪にやり、緩く梳いた。
「いい匂いだ」
ついでとばかりに腕を相手の背に回し、自分の方へ引き寄せる。
この花は暮れ方が一番香るんだと、笑って言う。
しかし、佐助はその言葉に顔を曇らせて、
「…旦那、悪いんだけど盥と水もらえるかな?水浴びするようだわ」
「は?なんでまた急に」
「匂い、落とさないと」
「何でだよ。せっかくいい匂いなのに、もったいないじゃねぇか」
「あのね〜旦那…」
幼子に咬んで含ませるように佐助は言う。
「知ってると思うけど、忍は体臭厳禁なの。匂いがあっちゃ仕事に障るでしょ」
敵地潜入を専らとする忍は、己の痕跡をけして残さない。残せばそこからアシがつき、最悪任務の失敗につながる。当然己の命にも。
「忍犬の追跡や警犬の見張りは人間よりやっかいだからね」
それに、俺たち/忍も鼻がきく。
忍同士の暗闇での戦いで敵を知覚するのは、相手の息遣いとそして、匂いである。そこにまま、勝敗の分かれ目が存在する。
闇に潜み、息を殺し、体臭を消す。
忍とは、そういうモノ。
「忍ってぇのも色々やっかいだな」
元親の率直な言葉に佐助は苦笑する。
忍の性とはそんなに単純なものではないのだが、彼が言うと何故だがそれで済んでしまう。
気が、楽だ。
「そうだね〜、確かにいちいち風呂に入るようだし。それに自分の匂いがないから、今度は簡単に他のものの匂いがついて、やっかいと言えば、確かにやっかいだ」
雨に濡れれば水の匂い
花木の下に立てば花の香り
血に染まれば血の臭いを
移してしばらくとどめている
「自分の匂いがないって、全くねぇってことはないだろ?」
「そりゃ少しはね。でもほとんど無いのと変わらないよ。あの忍びばりに鼻のきく真田の旦那も、『佐助の匂いだけはわからん』って言ってたし」
すると元親は何気ない口調で、
「俺は分かるぞ、お前の匂い」
「へ?」
間の抜けた声を、佐助は出してしまう。
「んなはずないでしょ?」
俄には信じられないことである。
「いや、今は金木犀の匂いだけでお前のはわかんねぇ。けど、お前の匂いは確かに知ってる」
「…鬼の旦那って、真田の旦那より鼻がいいの?」
さすがにそれはあり得ないだろう。
彼の主は何においても規格外の人物なのだから。それを越える人間は、そうそういるものではない。
そうだとすれば、元親はどうして佐助の匂いを知ったのか。
「旦那、何時から知ってた?」
「結構前からだな」
「何で?どうやって?」
「何でって言われてもな…」
佐助に問いつめられて元親は考え込む。佐助も必死に心当たりがないかと記憶を辿った。彼からすればこれは、しくじりである。原因を探っておかなければ、後々任務に関わってくる。
―――匂いって、そう簡単に分かるもんじゃないぞ
元親に説明した湯浴み水浴びの他にも、忍びは体臭を消す工夫を多く行っている。その上で他人に匂いを知られてしまうとすれば、
―――よっぽど汗かいたときか、それこそ密着でもしない限り無理じゃ…
そこまで思考を巡らせて、
不意に、脳裏に、記憶が浮かぶ。
―――あっ
「あっ」
佐助の思考と元親の声が重なった。
闇に 細い 足が 宙を彷徨う
酷く皙い
それを大きな手が捉え、もう片方の足と共に肩にかけられる
ひらいたそこは濡れていて
夜気に肌が騒めいた
触れる舌は熱く
洩れる声は甘く
どちらも互いの理性を掻き乱し
攫っていった
満たされる身の内と
繋がる身体と
そこに微かに立ち上るのは
紛れもなく己/相手の香
それがやがて交わることを
思い出す
『………』
互いに同時に答に行き着き、その答に互いに言葉を失った。
部屋に奇妙な沈黙が下りる。二人とも動かない。
そんな時間が暫く続くと不意に、
「くっ…」
どちらともなく声が洩れる。
ついで肩が揺れ、顔を伏せるがどうにも我慢できず
『はっはっはっはっ』
声が弾けた。
それは深刻に考えた末に出た答が他愛もないことへのおかしみであったが、同時に盛大な照れ隠しでもあった。
「ははは…心配して損しちゃったよ。これじゃ鬼の旦那が知ってても仕方がない」
「ああ、確かに仕方ねぇな」
そして元親は再び笑うが、心なしか顔が赤い。日に焼けてはいるが、もともと肌が白いため隠そうとしてもすぐにばれてしまう。
ことに佐助は人心を読むに長けた忍びであり、何より元親の最も傍にいる身である。
相手が何を思っているのか、簡単に理解できた。
―――そう言えば、この間は一月前だったな
いつもよく待ってくれると呆れもし、感謝もする。
そこで、少しの申し訳なさと多くの愛しさをこめて、佐助は、
「旦那」
「ん?なん…」
触れるだけの口吻をした。
元親の身体は思ったよりも熱く、そして自分の身も熱を帯びていたことに今さら気付いた。
「佐助?」
呆然と元親は佐助を見る。それに悪戯を思いついた子どものような笑みを返して
「旦那、俺二回も水浴びするのは面倒なんだよね。もう一旦匂いがついたんだから『これ以上』増えても同じだし」
だから
「水浴び前に俺を喰べない?」
わざとらしく着物の前を開けて誘ってみれば
「………お前には敵わねぇな」
心中を見破られて元親は苦笑いを浮かべる。そして互いの息が触れるほど顔を寄せ、
「いい匂いだ」
今度は深い口吻を。
―――敵わないのは俺の方だよ
そう伝えようとした佐助の声は、胸の奥に。
それから夕食の膳を運んできた侍女が、城主の部屋の前で踵を返し台所に戻ったことを、二人は知らない。
後書き
初書きBASARA&チカサスです。
これを書いた当時はチカサスにハマりたてでしたので、ひたすら何か形にしようと
妄想のおもむくままに書いてました。結果、頭の悪いぬるい甘々なことに…(汗)。
通い妻佐助とメシと風呂を焚いてスタンバってる旦那さんチカ。
我が家の二人は一応こんな感じで展開していきます。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
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