無名 むみょう









幼い頃は「姫さま」か、良くて「若さま」

十数年後、再会して昔の呼び方が抜けてからは「鬼の旦那」



呼び方など、拘る必要もないかもしれないと元親は思う。

けれど



「鬼のダン…な」


押し殺した、けれどひどく濡れた佐助の声。熱に浮かされ、懇願するその声に理性を掻き 乱されて元親は欲のままに身体を重ねた。


ふと、虚ろが胸に染みこむ。

熱を帯びた細い身体はこの腕の中にあると言うのに、ひどく実感が薄い。



呼び方など、拘る必要もないかもしれないと思いながら

けれど、佐助が「旦那」と自分を呼ぶ度に


埋められない距離を元親は感じていた。


















『エサ、エサっ!ヒメ、エサ!!』


潮風に極彩色の羽を翻し、けたたましい声で鳥が強請る。


『まだ餌の時間じゃないよ、瑪瑙』

『メノウ?』


不思議そうに、傍らの幼い忍が聞き返した。


『この子の名前。沢山色があって瑪瑙石みたいでしょ?』


赤 青 黄


物言う鳥―鸚鵡が餌を強請って羽ばたくたびに、色取り取りの羽が視界を満たす。南国の 光を受け、それは玉石のように鮮やかに輝いていた。

眩しさに、忍は目を細める。


『ええ、確かに、玉のようにきれいですね』

『そうでしょ?』


相手が頷いたことに満足して笑う。そして、思いついたように、


『お前の烏は?何て名前なの』


幼い肩に止まる、漆黒の鳥を示して尋ねた。

だが、何気ない言葉に対して彼の声には抑揚が無く


『これですか?名前はありませんよ』

『どうして?その子はいつもお前と一緒にいるのに、名前がないと不便ではない?』


どこまでも無邪気に訊く、幼い昔の自分。けれど、それより幼かったあの忍は、あの頃か ら全てを諦観した眼をしていた。



歳に似合わぬ落ち着いた口調

どこか困ったような笑顔を浮かべ


『名前を付けたらいけないんです。情がわいてしまうから。そうなったら、いざと言う時、 切り捨てられない』

烏は仲間でも家族でもありません。ただの道具です。

そして、俺/忍も。

『―――』

『忍は、無駄な情を持ってはいけないのですよ、姫さま』
















―――夢か……


浮上する意識の中、元親は幼い頃を思い出す。


まだ小袖を纏い、姫若子と呼ばれていた自分。

まだ戸澤白雲斎のもとで修行をしていた佐助。


元親は、父に招かれ白雲斎に連れられた佐助と出会い、一時共にいた。

あれは、父達を待っている間浜に下りていた時、鸚鵡が餌を強請って羽ばたいたことがき っかけだった。



幼い唇が、忍の性を語って聞かせる。


名など無用

己を呼ぶ声も

相手を呼ぶ名も

全て使命の前では、妨げにしかならないと



―――お前は、何も変わっちゃいねぇんだな



耳に残る、昨夜の佐助の声。


『鬼のダン…な』



理性を失い、快楽の波に攫われてもなお、頑なに、むしろ怯えるように元親の名を口にす ることはなかった。

それは忍の性故と言うよりも、彼自身の身の内にある―――


カラリ


「旦那、起きた?」


障子が開かれ、声が届く。瞑っていた目を開けると、薄暗がりの中夜着姿の佐助が障子か ら顔を出していた。

普段は逆立てるように後ろへ流した髪は、濡れて真っ直ぐに下ろされている。情事でつい た体臭を消すために、外で水浴びをしたのだろう。


「井戸、勝手に使わせてもらったよ」

まだ早いから、台所起こしてお湯貰うわけにはいかないからね。

「ああ」


言われて障子の外に目を向ければ、差し込む光はまだ弱く、夜明け前と知れる。


「旦那?」


言葉少ない元親を訝しみ、佐助は部屋へ入ると元親の枕元に膝をつく。

相手の顔をのぞき込みながら、


「ごめんね」

「………何でお前が謝る?」

「さぁね。でも、何か俺に怒ってるんでしょ?」

「別に、怒っちゃいねぇよ」

「そう」


それだけ聞くと、佐助はそれ以上追求せずに枕元から立ち上がろうとする。まるで元親の 機嫌など興味がないように。
その態度が勘に触り、元親は佐助の細い腕を掴んだ。


「わっ」


咄嗟のことで体勢がとれず、佐助は元親の上に覆い被さるように倒れこむ。


「ちょっ、鬼の旦那!?」


元親に腕を取られたまま、片方の空いた手を突いて佐助は半身を起こす。ひどく近い距離 で目が合った。


「怒ってないなら、これは何?」

「……気に入らねぇんだよ、『鬼の旦那』ってのは」

「?」

「名前、いつになったら呼んでくれるんだ?」

「―――」


佐助の表情が強ばる。薄い闇の中、琥珀の瞳が見開かれていくのが元親に分かった。そし て一度、息を吐く。



「餓鬼の頃から変わってねぇな、佐助」



幼い頃は「姫さま」か、良くて「若さま」

十数年後、再会して昔の呼び方が抜けてからは「鬼の旦那」


「あの烏にも、結局名前つけてねぇんだろ?」

「烏…」


記憶を手繰るように佐助は繰り返す。


「餓鬼の頃、お前はこう言ったんだよ」


大人が幼子にするように、どこか困ったような笑顔を浮かべて、幼い忍はこう告げた


「『忍は、無駄な情を持ってはいけない』とな」


忍の性を


「俺のことも、無駄な情か?」

いつか殺す時に、裏切る時に、躊躇わねぇようにしてるのか?

「旦那っ…」


否定しようと佐助は身動ぐ。否定せずともそんなこと、分かっていた。



彼の真意は

昔から変わらず



「それとも、本当は怖いのか?」

失うことが

失った時の痛みが



この忍の身の内にあるのは恐れ―――



琥珀の瞳を覗き込むように問うと、静かな声が返された。

佐助自身も不思議な程、自然に


「怖いよ」


緩やかに肯う。


名を口にする度に、その存在が身の内を占めていく

そしてそれを失った時の空虚さは、如何ほどか


「どうせ、何時か亡くすか離れるんだ。情があるだけ辛くなる」

ならいっそ、そんな感情など最初から持たなければいい

「餓鬼の頃からそう。だから『姫さま』の名前も呼ばなかった。最初から一緒にいられな いって分かってたからね」


名など覚えていなければ、すぐに忘れられる。未練もない。


「でもまた、俺たちはこうして一緒にいるじゃねぇか」


至極単純に、元親は告げた。その言葉に、佐助は息を呑む。



何も返すことが出来なかった。

あまりにも当たり前な言葉だったから。

そして、元親にとって、それは当然のことだった。


「こうやってまた会えたんだ、どっかで俺たちは縁があるんだろ。これから何があっても、 また逢えると俺は思うぜ」

それこそ、死んだ後も、次の生も

共に在ると信じている


「だから呼べよ、名前を。お前は俺を亡くさないんだからよ」


そして、ニィ、と不敵に笑んだ。

佐助は息も触れる近さで、呆然とそれを見つめた。そして、相手の言葉を飲み込むように 一度目を伏せ、


呟くように



ぽつり

「根拠のない自信」

ぽつり

「楽天家」

ぽつりと


「でも……あんたらしい」


伏せた目を開くと、佐助は半身を支える腕の力を緩める。互いの距離が、縮まる。

掠めるように微かな声で


「元親には、敵わない」

「え?」


聞き返そうとした元親の声は、佐助の口内に消えた。

それで元親には充分な答えだった。


空いた方の手を伸ばし、元親は佐助の頬に触れる。水気に濡れてひやりと冷たい。

けれど、

ひどく近くに相手を感じた。実感、出来た。

虚ろが満たされていく

その実感から、元親は口付けを終えて身を起こそうとした佐助の腕を引き、もう一度深く 唇を重ねた。

濡れた頬に熱がさし上る。


「旦那、俺匂い落としたばかりなんだけど」

「また落としゃいいじゃねぇか」

今度は風呂、焚いてやるからよ

「もう朝になるよ。外が明るくなってきた」

あいつも待ってるし

「たまには朝寝もいいだろ」


障子の外で、佐助の名前のない烏が不満そうに鳴くのが聞こえる。時間になっても相方が 現れないことに不審を感じたのだろう。

あれにも名前をつけてやらねばと、元親はふと考えた。


「でもね、旦那…」

「またか」

「あ…」

「呼べよ。ちゃんと」

俺/名前を

「……元親」


紡がれる名に心地よさを感じながら、元親は「いい子だ」と今度は軽い口付けを。

諦めきった佐助は深く息を吐くと、再び夜具へと身を潜らせた。



障子から差し込む光は明るさを増し、夜明けが近い。

待ちぼうけを喰らった烏が、もう一度鳴いた。
















後書き

チカサス祭に送らせてもらった話です。制作順に言えばBASARA2本目に書いたもの。
連載設定を練ってる最中のネタでしたので、今と少々設定が違ってたり;それでも二人 を幼なじみにしたかったのは当時からだったようです。
ゲームでも佐助はあまり相手の名前を呼ばないな、と言う疑問から、他人と一定の距離 を取るためと妄想して出来たネタ。そのため、拙宅の佐助は忍以外の相手には何かしら 自分で呼び名をつけている設定です。名前呼ぶのはよっぽどの時以外だったらいいな、と。
鸚鵡の名前は無駄に凝ってみました。「瑪瑙」は宝石から。チカ=海賊=お宝=宝石 と言う連想と、あの混ざった色に似た石から。
因みに、タイトルの『無名』は実在の琵琶の名前から。名もない、けれど確実に在る存在 と言う意味で。

ここまで読んで頂き、有り難う御座いました。



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